「八百八橋にはドラマがある!」その5

~商人の町大阪にはこんな素敵な場所がいっぱい~

相合橋(あいあうばし)と近松門左衛門

 道頓織の戎橋の隣にある相合橋。南側にあった芝居町と北側にあった茶屋を結んでいたことから、艶があるということで相合橋と名づけられたと言われています。相合傘と同じですね。最初は通称だったらしく、古い文献には新中橋として登場しています。

月ははや、渡り初めして、中橋や

(近松門左衛門 「心中重井筒」の一説より)

 近松門左衛門が描いた「心中重井筒」(しんじゅうかさねいづつ)にも新中橋として登場しています。新中橋の北にあった六軒茶屋の一つ・重井筒が物語の舞台となっています。心中した遊女・お房の職場でもあり、紺屋に入り婿した徳兵衛の実家になります。実家を継いだ兄夫婦のもとへ通ううちに、情が通じてしまった不倫の恋の話です。一度は自分を庇う女房の気持ちに打たれ、徳兵衛はお房との別れを決めます。しかし、橋のたもとに来た時にお房を思い出して重井筒へと新中橋を渡ってしまう。葛藤が描かれるクライマックスで、いつも訪れていた場所に来てしまう。その心中はどうだったのでしょうか。これぞドラマですね。

道頓堀川に浮かぶ相合橋

縁切り橋

 芝居小屋が多かった道頓堀の南側と、茶屋が集まる北側を結んでいた相合橋。役者と遊女が落ち合う場所だったはずが・・・心中ものの舞台になったせいなのか、実は相合橋は縁切り橋と嫌われていたのです。明治頃から「相思相愛の男女がこの橋を渡ると別れる」と、遊郭や茶屋で噂として広まっていきました。恋する遊女たちは、遠くなってもここを避けて回り道していたんだとか。婚礼の行列もこの橋を渡るのをわざわざ避けたなんて逸話も残っています。某有名ラーメン店のすぐそばなので、飲みに行った恋人たちも締めのラーメンはやめた方がいいかもしれませんね。

南側から見た相合橋

夢の水上橋

 散々な評判の相合橋ですが、昭和58年の架け替えの際には「地域の核として、周辺の整備を進める」との期待を担っていました。カラフルなレンガタイルを敷き詰め、植栽やベンチなどが並ぶ憩いの場所としてリニューアルされます。行政や地域団体も協力して推し進めますが、戎橋と比べるといまは寂しい人通りです。

かつての水上橋の名残がある広場

盛り場を 昔に戻す 橋一つ

(食満南北_相合橋句碑より)

明治から昭和にかけて活躍した歌舞伎作者である食満南北(けまなんぼく)が残した句ですが、往時の橋の見る影はなく。広さの面影だけが少し残るばかり。

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