「八百八橋にはドラマがある!」その3
~商人の町大阪にはこんな素敵な場所がいっぱい~
難波橋
難波といえば大阪ミナミをイメージしますが、実は難波橋は大阪市北区の中之島に架かる橋になります。そして、シンボルと言えば関西の人が大好きなアレのタイガーでなくて…ライオンなのです。
ライオン像は北詰と南詰の入り口に二頭ずついて、口が開いた方が阿形(あぎょう)像。閉じた方が吽形(うんぎょう)像です。東大寺の仁王像と同じですね。ちなみに阿形像は口を開けて「物事の始まり」を表現しており、吽形像は口を閉じて「物事の終わり」を表現しています。魔除けの意味で悪いものを近づけない。雨の日も風の日も、ライオンさんたちは大阪の町を見守ってくれています。
浪華三大橋
大川にまたがって大阪の南北をつなぐ橋であった難波橋は、天神橋・天満橋と並んで浪華三大橋と呼ばれました。江戸時代に架けられた木造の橋としては当時の最大級で、長さは二百メートル以上もあったとか。反り橋で高さもあったために、三大橋の中でも人々が風を求めての夕涼みや花火見物に利用される人気スポットして愛されていたと言われています。
しかし、明治時代になると西欧の技術を用いた鉄橋が次々と誕生し、かつての隆盛が失われていきます。難波橋が生まれ変わるのは大正時代になってからのこと。パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考に、現在に続く中ノ島公園の整備事業として架け替えされました。隣の天神橋にはない豪華な橋上装飾や石造りの階段も造成されています。完成時には渡り初めが行われ、大阪の芸妓さんたちがこぞって絵日傘を持って練り歩いたとか。夜には祝賀の花火も打ち上げられたのできっと素敵な思い出として市民の心に残ったことでしょう。シナリオでも過去を表現するときに、時代を象徴するイベントを使うことがあります。NHKの朝ドラでいつか難波橋の渡り初めが復活!なんて日が来るかもしれませんね。
北浜と難波橋
難波橋の南にあたる北浜は、現在は大阪証券取引所を始めとする証券街です。江戸時代には水運を利用した米問屋や両替商が軒を連ねていました。川を挟んで北には各藩の蔵屋敷があって、日本の経済を支えていた場所でもあります。そんな賑わいのある場所なので、夏の夕べには納涼の茶店などが並んで憩いの場所にもなっていました。難波橋を渡って多くの商人や武士たちが涼を求めて楽しんだと言われています。今も昔も恋人たちはどんな思いでこの橋を渡ったのでしょうね。
橋の思い出は恋だけではありません。大正時代の大阪で“北浜の今太閤”と呼ばれ、株や米の相場でのし上がった松井伊助も難波橋からこの風景を見ていた一人です。松井は故郷の和歌山の旧松井家別邸にライオン像を飾っています。難波橋の建設当時に五頭作ったうちの一頭だとの逸話も残されており、立身出世を果たした松井は錦を飾りたかったのかもしれませんね。