「八百八橋にはドラマがある!」その22
~商人の町大阪にはこんな素敵な場所がいっぱい~
【京都番外編】鴨川最古の七条大橋
京都市内にある七条通りから鴨川に架かる橋、それが京都で最古と言われる七条大橋です。仔細は不明ですが、江戸初期の書物に名が記されていたり、伏見稲荷の「稲荷祭」の行列がこの橋を渡る絵も資料として残されています。古くから京都の人々の生活に根付いたものだったことが分かります。
また七条大橋は立地的にも京都駅に近く、文化施設として国立近代美術館や京都市動物園、三十三間堂などの施設が数多く存在します。七条通は京都の東西を横断している道路です。東は東大路通になり、西は市道184号線のある西京極あたりまでつながっています。JRの西の高架沿いには古くからの商店街が広がるなど、いろんな顔を見せてくれる場所なのです。
七条大橋は国の登録文化財
近代京都の都市改革は二代目市長となった西郷菊次郎(西郷隆盛の長男)によって進められていきました。大きなものだけでも「第二琵琶湖疎の開削」「上水道の整備」「市電や道路の整備」といった事業がありました。この近代化施策の一つとして七条大橋も改修されていきます。
七条大橋は日本初の鉄筋コンクリート製の橋となり、橋の長さは100メートル以上あったと言われています。また大正時代には国の文化財として登録され、京都の交通の要衝として栄えていきます。昭和10年の大水害では京都でも多くの橋が流されてしまう中、無事だったのは七条大橋を含めた三つだけでした。 そんな七条大橋ですが、第二次世界大戦の時代には金属不足から橋の高欄や街灯が供出にあってしまいます。戦後しばらくは木製の橋となる不遇の時代も味わいました。
幻の大仏と七条大橋
奈良や鎌倉のように、京都にもかつて大仏があったのはご存知でしょうか? 作ったのはあの豊臣秀吉なんです。自らの権威権勢を誇るために作られたのが方広寺の大仏だったのです。この鐘の新造が大坂の陣のきっかけになったと言われている場所です。
ただ、この大仏建立にはかなりの紆余曲折がありました。というのは、なかなか場所が決まらなかったのです。計画の当初は信長の威光を利用しようとして、大徳寺の縁の地に建てようとしましたが頓挫。次に東山を秀吉自らが視察までしたのに中止にしています。最後になってようやく決まったのが、三十三間堂近くにある方広寺と言われています。
そんないわくつきの大仏ですが、市民からは「京の大仏っさん」としてわらべ歌が残されていたりと、広く親しまれていました。往時には京都市電が七条大橋の近くに「大仏前駅」があったほどです。しかし、度重なる焼失で当時のものはすでに残されていません。小さく再建された大仏様だけが奉られているのみなのです。