「八百八橋にはドラマがある!」その17
~商人の町大阪にはこんな素敵な場所がいっぱい~
今は昔の渡辺橋
渡辺橋と言えば、四ツ橋筋が堂島川にかかる橋になります。しかし、これは江戸の淀川改修工事で架け替えられたものであり、元々はどこにあったのかの詳細は不明です。過去にあったとされる文献なども現在は消失してしまっています。
平安時代の頃は現在の御堂筋くらいまでが海だったことも分かっており、居住できたのは難波宮のある上町台地くらいだったそうです。渡辺とは渡しのほとりを意味しますが、諸説では難波宮の玄関口にあたる窪津(渡辺の津)がそうだったのではないかされています。
渡辺党は全国区?
京都と熊野を結ぶ渡辺の津に勢力を持っていたのが、源氏の源頼光らを頭にいただく渡辺党でした。配下には四天王と言われる部下がおり、酒呑童子を退治したと言われる渡辺綱や歌舞伎にも描かれた遠藤盛遠など多くの配下がいました。
武士団であった渡辺党は、地の利を活かして瀬戸内海の水運に関与し、水軍の棟梁として頭角を現していきます。その後は海上交通を通じて日本全国に散らばっていき、各地に渡辺氏の支族を残したとされています。有名なところだけでも肥前の松浦氏や筑後の蒲池氏、毛利氏重臣の渡辺勝、豊臣氏家臣の渡辺糺らは子孫とされています。もしかすると全国にある渡辺性は大阪発祥かもしれません。
楠公と渡辺橋の戦い
渡辺橋の戦いは楠木正成の息子の正行が率いる南軍が、室町幕府から討伐を命じられた細川・山名連合軍との戦いで有名になった場所です。南軍の猛攻に押されて瓜破の戦いで敗走した細川・山名連合軍は、逃走ルートとして渡辺橋を抑えようとしました。しかし、南軍に追いつかれてしまい、激しい戦いとなりました。
渡辺橋から転落した兵は五百名以上だったとか。 この時、正行は敵兵を助け、治療を尽くしたとされています。その温情に楠家に寝返った将兵も多数いたそうです。この話は明治期に日本が赤十字に加盟する際に宣伝されています。戦場にあって敵味方関係なく救った正行の行動は、まさしくリーダーらしい行動でした。