「八百八橋にはドラマがある!」その14
~商人の町大阪にはこんな素敵な場所がいっぱい~
肥後橋
現在の肥後橋は四つ橋線の駅近くにあり、大阪市の中心部にあります。橋が作られた江戸時代の頃は、西横堀川から中之島へ架かっていた橋です。橋の北詰に肥後熊本藩の蔵屋敷があったので、辺りは肥後島と呼ばれていました。そこから肥後橋と命名されたと言われています。(諸説あり)明治18年の淀川大洪水で流失してしまい、その後に渡辺橋と対になる現在の位置に架け替えられることになりました。
大正時代にはアーチ橋となり、スパニッシュルネッサンス方式と呼ばれた豪華な飾塔を持つ重厚な橋へと変化します。平成に建て替えられた時も橋面と高欄部の改装が行われるなど大阪駅へとつながるメインストリートとして、市民に親しまれています。
大阪の巴里・肥後橋
大阪都構想なんて話もありましたが、実はもっと壮大な計画が日本全体で話題になったこともありました。それが大阪遷都計画です。一時期であれ、日本一の大都市になった「大・大阪」の言葉があるように、明治政府が荒廃した江戸よりも大阪を日本の首都にしようかなんて真剣に検討してた時期もありました。そんな大阪ですが当時は産業革命で発展したイギリスのマンチェスターになぞらえて、商都大阪を「東洋のマンチェスター」なんて呼ぶ人たちもいたのです。
しかし、大阪はイギリスではなく、実はフランスの巴里に憧れた街なのです。それが通天閣(エッフェル塔)と新世界(放射線状の巴里の町)です。また中之島はノートルダム寺院のあるシテ島に模されたと言われています。 そんな大阪を愛したのが中津に生まれた画家の佐伯祐三で、「肥後橋風景」などの数多くの大阪の風景画を残しています。若くして異郷で亡くなったのが残念です。
肥後橋と加藤清正
肥後と言えば、関ヶ原の功で肥後を任された大功の加藤清正が有名です。彼の大阪の屋敷は、この肥後橋の近くにありました。水運の発達した大阪でも中之島界隈は商人が集まっていたので、各大名の蔵屋敷もこの近辺に建てられています。
多くの商売人が働いていた肥後橋は、現在は大阪のオフイス街として発達していきました。ローマは一日にしてならずと言いますが、歴史は続くということでなのしょうね。