万博のお茶と音楽 2
ティーガールが平和外交に
江戸時代の1867年、パリ万博で初めて日本茶が提供された。明治政府が初参加の1873年、ウィーン万博では紅茶が出品されている。当時、茶は外貨獲得の最たる輸出品だった。
次の1876年、アメリカ・フィラデルフィア万博ではジャポニズム(日本ブーム)が起きている。それを反映して、「茶道」に関する文書が公式出品目録に加えられた。
1878年のパリ万博では、日本パビリオンの真ん中に茶室が配置されて人気を呼んだ。1893年のシカゴ万博では、これまで政府主導だった日本紹介は、民間の茶業組合中央会議所が担当するようになる。喫茶店で、お茶を提供する着物姿の女性たちは「ティーガール」と呼ばれ、日本館に視線を注がせるだけでなく、日米の政治的緊張の緩和にも一役買った。
大正時代になり、日系人が万博で活躍するようになると、喫茶店では抹茶レモネードなど抹茶のアレンジメニューが登場するようになる。その後、昭和になり1933年のシカゴ万博では、ステージパフォーマンスやラジオ放送を通じて、日本茶の宣伝に努めている。
そして、時は流れ、2015年に日本茶輸出促進協議会が発足し、同年開催のミラノ万博では日本茶が再び、宣伝された。2021年のドバイ万博でも、映像展示に日本茶の文化が画面を飾った。
2025年の大阪・関西万博でも、「いのちの遊び場 クラゲ館」が茶の精神を表現するパビリオンになっている。byメイ