故シナリオ・センター大阪校所長
 
倉田順介先生の想い出


 

倉田先生は、昭和26年、早稲田大学仏文科を卒業後、昭和29年に宝塚映像に入社され、昭和33年に東宝映画「野良猫」(森繁久彌・乙羽信子主演)でデビュー、以後、映画テレビドラマを約300本執筆されました。そして昭和40年にテレビドラマ・プロデューサーに転じられ、約1000本をプロデュースされました。

 昭和58年にシナリオ・センター大阪校の専任講師に就かれ、平成7年より同大阪校所長を務められました。その間、ひたむきなシナリオ教育へのご情熱は、シナリオ・センター大阪校の礎から今日の同校への拡張へと多大な功績を残され、また、あたたかいお人柄は業界のご朋友をはじめ、同校創設当時の生徒さんから現在勉強中の生徒さんたちまで、多くの人に愛されていました。

 
 倉田先生の教え


自分で考えなさい

 

今から丁度四十年前の話である。

 当時、私は宝塚映画でTV映画の脚本を書いて、初めて脚本料を手にした。天にも昇る気持とはこのことだ。

  そんなある日、次長に藤本義一氏と二人呼ばれて、川島雄三監督の『暖簾』(森繁久弥、山田五十鈴、乙羽信子)で脚本の手伝いをしろと言われた。八住利雄氏の立派な決定稿が出来上がっているのに、何で手伝いなのか……。不安を抱きながら川島監督の宿に行く。

  監督は「ご苦労さん」と言ったきり仲々本題に入らない。色々雑談している内に、監督は「あなたは落語全集を持っていますか」と訊ねられた。残念ながら二人共その時持っていなかった。すると監督は「喜劇を書こうとするライターが、落語全集も買ってないなんて……」と侮蔑の眼差しである。二人は冷や汗で俯向いたまま。やっと監督は脚本を取り出し、シーンbノ丸印をつけて、「このシーンを面 白くして下さい」とたった一言。

 部屋に帰った二人は思わず顔を見合わせた。(面白くしろ)注文はそれだけである。

  翌日、それぞれが五、六枚の原稿を持って行く。監督はゆっくり読み終わると、黙ってその原稿をすーっと返される。思わず「あの、どこが悪いので……」と言うと、一瞬恐い顔をして「あなた達はプロでしょう?」と訊く。藤本氏はともかく、私は脚本料を貰ったばかりのほやほやである。監督はニヤリとして「高い安いはあるけど、金を貰えばプロですよね。プロなら……」と後は何度も頷きながら原稿を突き返される。

  さあ困った。二人は考えた。その内二人は思い出す。確か三枚目で監督は、ふ、ふ、ふと笑ったぞ。慌てて三枚目を読み直す。そうか、このセリフで笑ったのだな。

  例えば八住氏の書かれたこんなシーン。番頭の吾平(森繁)と女中のお松(乙羽)は恋仲だ。ところがお松の母親が急病で、明日淡路島に帰らなければならない。吾平はお松を今宮戎に連れ出し結婚の約束をしようとする。正月の今宮戎は人出人出の喧騒。二人はついにはぐれて離ればなれになる。

吾平「お松っちゃん……お松!……お松!」
   呼べど叫べど、お松の姿はない。

 さて、このシーンが
吾平「お松っちゃん…どこや、どこ行ったんや!」
   ふと吾平、自分の掌を見る。福笹で切れて手に血が滲んでいる。
吾平「あっ手が切れた! 手が切れたがな!」

  そして次のシーン。
   淡路島に渡る蒸気船の汽笛。ボーと鳴る甲板にお松がぽつんと立っている。に続く。

  後日、落語全集を買って驚いた。落語のオチに何種類かあり、その中にシャレ落ち、というのがあった。監督の要望は、シーンのオチが欲しかったのである。

  人から教えられるのではなく、自分で考え工夫し、苦労したことは、決して忘れないことを私は初めて知ったのである。




自分にな

 

子供の頃、母の実家に帰ると不思議な思いがした。実家の奥座敷に奇妙な額がかかってある。太い筆でぐねぐねと、字が時には絵のように見える。何が書いてあるのかよく解らない。処が不思議なことには最初の言葉だけは辛うじて読める。

  その言葉が「自分にな」  私は何故か知らないが「自分、にな」と読む。なぜそう読んだのか、今になってもその理由がわからない。

  ある時「にな、てどういうこと?」と母に訊ねると怪訝な顔をする。私が額を指すと、母はコロコロと笑って「自分に、な」だと云う。後で解ったことだが、額にはこう書かれてある。

『   自分にな
    なまけるな
    おこるな
    いばるな
    あせるな
    くさるな
    おごるな   』

 こう書けば、なーんだとなるが、前衛的というか、達筆というか、子供の私にはなかなか読めない。

  伯父の話では、偉いお坊さんの書だと云う。私はこのことが忘れられなくて、中学時代、作文に書いたことがある。

  そして現在、この教えが人間としての訓え万人に通じるものとつくづく身に沁みる。私はふと、シナリオの世界に通 じる「な」を考えてみた。幸い、手許に「シナリオ・センターのミソ帳」がある。新井先生の「シナリオいろは」からヒントを得て、私なりの「自分にな」を書いて見る。

『   逃げるな
    あきらめるな
    やめるな
    人に頼るな
    退屈させるな
    説明するな
    理詰めで書くな
    ルーズな書き方をするな
    いい加減なタイトルをつけるな 
    …  …    』

 「書くな」とか「…という書き方をするな」というようなものは限りがない。どうかご自分で「自分にな」を創って、それを守ってください。




言葉の移り変わり


言葉は時代と共に移り変って行く。

 シェークスピアの『ロミオとジュリエット』。
 その中のジュリエットのセリフが変化している。バルコニーの場のセリフを、三つの翻訳で比べてみよう。

 「もしそのお気持ちに偽りなく、結婚して下さるお積もりなら……」
 (1964年版、福田恆存訳)

 「もしあなたの愛のお気持ちがまことのものであり、結婚ということを考えてくださるなら……」 
 (73年版、小田島雄志訳)

 「あなたの愛に偽りがなく、結婚を考えているのなら……」
 (99年版、松岡和子訳)

 言葉遣いが新しくなるに従って、平易になっていることに気づかれるだろう。
 松岡氏は「原文では二人が対等な言葉で話しているのに、以前の翻訳ではジュリエットがロミオに対して過度にへりくだっている。昔はそれが品位や育ちの良さを表すと考えられていたからではないか」と話す。

 劇作家の永井愛氏は、十年前から家庭で「オイ、メシだぞ」など男言葉を使っているそうだ。劇作の為にわざと日常生活で試しているという。つまり女言葉の無性化が進んでいるのだ。いわゆる女言葉の変化である。

 「敬語はいらない」。こう言い切る言語学者がいる。「外国人が日本語を学ぶ上で、敬語が障壁になっている。日本人にも難しく、敬語に費やす労力は日本語を豊かにすることに回すべきだ。敬語の訓練をするくらいならもっと論理的な表現に凝った方がいい」
 岩波書店刊「新約聖書」(全五巻)。従来の聖書なら「御自分(イエス)」となるところが「自分」になり、「戒められた」が「叱りつけた」になった。翻訳者の言に「歴史書として福音書をとらえたかった。原文のギリシャ語に敬語がない以上、翻訳で敬語を使うのはおかしい」と言う。
 一方で、「先生が云うたはった」「先生、えらい怒ったはった」の、あの‘はった’という関西弁は云うに云えない敬語のニュアンスだという意見がある。

 ニュアンスというのはフランス語である。日本の国の言葉の中で、どれ程多くの外来語があることか。シャツ、ボタン、カステイラ、ワープロ、パソコン……等々。然もこれらの言葉はも早日本語として定着しているのだ。この外来語氾濫は益々増える傾向である。
 また、漢字がさまよっているという問題がある。戦後、政府は簡略化の為に当用漢字を推進した。処がつい最近「正しい漢字を復活させよう」という運動がある。伝統回帰ということだ。例えば麺(めん)という字が、?も復活させようというのである。漢字をめぐる混乱は、近年拡大するばかりである。
 こんな時代に、ワープロを捨てる作家たちがいる。いとうせいこう氏、阿部龍太郎氏、小松左京氏、等である。

「本来、漢字仮名交じり文は縦書きが筋。脳の中の思考を縦書きの手の運動に交換する習慣が消えるのは、文明史的に見ても損失になる」「思考が分裂気味になり、文章が薄っぺらになった感じがした」「ワープロの時は、頭の中の言葉をそのまま書いてしまうので早いが、推敲のない文章になりがち。手で書くと書きながら読んで頭の中でフィードバックする。文章鍛錬になる」 

  作家たちの言葉である。

 揺れ動く言葉の移り変りの方向はどちらに向かおうとしているのだろう。
 学者たちは次のように云う。「まず日本語、話す言葉と日本文学を区別する必要がある。話し言葉と表記とを分けるのだ。そして文芸家は国語改革を主導して行なうべきだ」と。

 ずい分乱暴な書き方をしたが、私達には決して放ってはおけない問題である。